2010,05,26, Wednesday
フェルメール矩形のキャンバス用木枠、冗談のつもりで書いた記事だったけれども、ちょっと面白そう、というか、自分も欲しくなってきたので、まだ軽くであるけれども、企画を煮詰めてみました。
■前回の記事 http://www.cad-red.com/blog/jpn/index.php?e=759 現在のキャンバスの寸法はF、P、M、Sの4種類の規格が広く流通しており、大部分の制作者がこのいずれかを使用しているが、既製キャンバスが現われるまでの絵画は、決まった縦横比はなく、さまざまな縦横比の画面に描かれていました(「近代以前にはカンバスをまず仮枠に張って制作し、完成後に、作品の大きさに合わせて木枠と額をつくるのが通例であり、したがって木枠には定まった形や大きさの規格もなかった」『画材の博物誌』P.199) 参考までにフェルメールの作品一覧をご参照。 http://www.salvastyle.com/menu_baroque/vermeer.html フェルメールの作品にはF型に近いものあるが、大半はそれより長辺が短いものが多い。Webページに記載の寸法を参考にすると、「牛乳を注ぐ女」は比率、1:1.109、「ヴァージナルの前の二人」は1:1.148、「レースを編む女」1:1.166、風景画「デルフトの眺望」は1.192、となる。F型(1:1.236)より短い長方形は、特にフェルメールやピーテル・デ・ホーホが愛用していたが、既製キャンバス以前の時代では、他の画家でも高い頻度で見られる縦横比である。 そして現在、F型より細長い矩形についてはPとMがあるが、反対にFより長辺が短い矩形のキャンバスが流通していない。その為、現在はこのような矩形に描く人はだいぶ少なかろうと思われる。F型の次には正方形のSが控えているが、過去の名画にしても、全く正方形ということは滅多になくて、多少は縦横の長さが違っているものである。仮枠上で描いて、後に別の木枠にて額装するという方法によるところもあるかもしれないが、やはり、まるっきり正方形というのは、構図に例えるならメインのモチーフを丁度真ん中に置いてしまうような窮屈さが無きにしもあらずである。S型愛用者にとっても、若干縦横比が異なるという矩形が選択肢としてあれば、魅力的であろうかと思われる。 というわけで、S型とF型の中間の縦横比の木枠を「規格化」とまではいかないけれども、一部を製品化するという感じです。フェルメールは特にこの比率が顕著であるため、商品として成功させるにはフェルメールのようなネームバリューが活用できれば都合がよい。別にフェルメールでなくて、適当に画家の名前や名画などを持ち出してもいい(近代以前の画家の作品集など開けばたくさん見付かる。残念ながらレンブラントはF矩形近似が意外に多いので適していない)。似商品のチェックはあまりしていないが、とりあえず、国内の主要メーカーのカタログを見たところではFPMSしかなく、主要なオンライン画材店でも商品分類がFPMSで分けられていた(知っていたらコメント欄にお知らせください)。 縦横比は1:1.10~1:1.15の範囲がいいかと思う。フェルメールに合わせれば、1.15がちょうど良い。1:1.1は現代の画家には短すぎるかもしれないが、一部のF規格、例えばF10、F12号の縦横比が1:1.20を切っているので、これらの場合、1:1.15では差が明確でなくなる可能性もある。最大サイズは50号でよろしいかと思う。50号の長辺117,5cmというサイズを流用した場合、「デルフトの眺望」と同じくらいの大きさになる。それ以上の大作は、むしろ特寸で1から考えてもいいかと思うので。 ちなみに、わりと大きな作品である「デルフトの眺望」は1:1.192と実は若干細長い。「アトリエの画家」になると、ほとんどF矩形である。単純にフェルメールを意識した場合、大きなサイズになる従ってF矩形に近づけるという方法も考えられる。例えば、50号あたりで、1:1.19に持っていけば、50号を「デルフトの眺望」と同じ比率ですと言って販売することもできるし、これはかなり魅力的である。しかし、もっと大きな作品、例えば、ベラスケスのラス・メニーナスは1:1.15ぐらいであるから、別に比率を変えなくてもよいかもしれない。参考までに、その他でよく知られた作品では、12号ぐらいのサイズにフランス・ハルス「ジプシー女」1:1.115、100号ぐらいにティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」1:1.09、200号ぐらいに、ダヴィットの「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト」1:1.17等がある(※軽く調べただけですので、間違っている箇所あるかもしれません。また、諸々の理由から、画家が当初作成した画面と現状が異なる場合があります)。 |
2010,05,21, Friday
キャンバスに絵を描こうと思うと、事実上、メーカーの作った木枠以外に選択肢がなさそうに見えるのは何故なのかしら。
『画材の博物誌』P.199には「近代以前にはカンバスをまず仮枠に張って制作し、完成後に、作品の大きさに合わせて木枠と額をつくるのが通例であり、したがって木枠には定まった形や大きさの規格もなかった。桟木の互換性も必要なく、隅の木組みはじょうぶであれば、手法を問わなかった。この伝統は、一八世紀初頭まで支配的だった」とあるが、実際どんなものだったのか、今までさほど感心がなかったので、手元にぜんぜん資料がないのだけれども、谷川渥(著)『図説 だまし絵―もうひとつの美術史』という本に、手がかりになりそうな図版が多数載っていたので、そちらを引用させてもらいつつ考えてみることに。 まず、ヘイスブレヒツのだまし絵作品(17世紀中頃)。 画布がめくれて、木枠が見えているが、今の木枠のような傾斜もなく、ただ角材を組み合わせただけのように見る。ちょっとしたホゾみたいにはなっているだろうけど、現代の木枠ほどでもなさそうである。 パレットがあるので、制作中?、あるいは完成直後? ↓は別の作家のほぼ同じ年代の作品。 腕鎮やパレットが描かれているので、制作中の様子に見える。 やはり木枠はただの角材で、傾斜もなさそうである。釘のようなものが見える。 現在のように木枠を画布でくるむのではなくて、木枠の内側に画布が張られている。下の方は紐で引っ張っているが、縦横比の違う作品でも同じ仮木枠を使っていたのかもしれない。 それにしても、さっきからキャンバスの上にナイフみたいなのが見えるのだが。何だろう? 何かの象徴? それとも、これで画布を仮枠から外すのだろうか。木枠に麻布を張って膠引きすると、染み込んだ膠でくっついたりすることがあるし。 ↑こちらも「だまし絵」で、イーゼルやキャンバスなどの形になった、巧妙な変形キャンバスに描かれたものだけれども、裏返しになったキャンバスが見えている(これも絵である)。 「桟木」が適当な感じで付けられているが、実際、こんなものでもいいのかもしれない。 だまし絵だけで判断するのもちょっとあれだし、参考の木枠が小品ばかりなので、まだまだ疑問点も多いのだが、これらの画像を見る限りでは「桟木の互換性も必要なく、隅の木組みはじょうぶであれば、手法を問わなかった」というのは、実際その通りな感じがする。 で、なぜ、現代だと、立派な木組み、桟木、傾斜を備えた木枠を使わなければならないのかというと、まずは、キャンバスを買うときから、制作中から、額装まで、木枠とキャンバスが一体化して取り扱われている傾向があるせいかも。描くときから、立派な木枠が必要ということか。ただし、17世紀のだまし絵には、額装後に裏返したキャンバスみたいな作品もあったりするが、そこに見える木枠も仮枠と同じくらいシンプルである。 以降の話は、ほとんど完全に予測上の話で、細かな検証はしていないのだけれど、角の木組みが重要になってくるのは、昔よりもキャンバスをきつく張っているせいかもしれない。これは、絶対に弛んではいけないという思い込みもあるかもしれない。「かつてはピンピンにキャンバスを張ってはいけないと言われていた」という話を、以前、mongaさんから聞いたような憶えが(記憶違いだったらすみません)。日本だと湿度の差が大きい気候のせいで、天候によるたるみなどを防ぐために、より引っ張って張っているということも考えられるかもしれない(未検証)。次も厳密に計ったりしたわけではないのだけど、画材店で市販キャンバスを触ってみると、麻+膠目止+油性地塗りキャンバスはなんとなく堅めで、あまり木枠に頼らなくても支持体としてそこそこの堅さを持っているような気がするのに対し、化繊混合、PVA目止、アクリル地塗りのキャンバスはちょっと柔らかいので、木枠に依存する率が大きいということがあるかもしれない。あと、プライヤーで引っ張ると、妙に伸びるキャンバスもあるような。。。高校の頃、美術の先生から、絵は木枠から外したお仕舞いだと聞かされて、しかし後々考えると、ベネツィア派やルーベンスが完成した絵を木枠から外して輸送したというのに、なんで木枠から外すと駄目になってしまうのかと思ったものだけど、現代のキャンバスだとあり得ないことでもないのかも。実際に、木枠に張っていたときは大丈夫だったのに、外した途端に厚塗りした絵具が樹皮みたいに剥がれてきた例を目撃したことがある。ちなみに、石膏地、白亜地などを行なったキャンバスは非常に固く、木枠の傾斜がなくとも大丈夫そうだという手応えがあるが、これらは曲げると割れるので、現代の市場ではちょっと難しい。 ※最後の方は、ほとんど想像上の話であることをご了承ください。 ■追加の参考画像 National Gallery Technical Bulletin Vol.20から |
2010,05,18, Tuesday
現行キャンバスの寸法が号数によって比率が違うなど、整合性の無さが当サイトの掲示板等で話題になっていますが、もし新しい規格を作るとしたら、どんなものがよいかというのをちょっと考えてみた(ちなにみ、ある程度、絵を制作していったら、やがては自分のスタイルに合った寸法というものがあらわれると思うので、オーダーして木枠を造り、オーダーしてフレームを作るというのが絵画制作の流れとして理想的なんじゃないかと個人的には思うのだけれども、とりあえず私の考えは別として)。
まず、Mという比率は規格から排除してしまうのがよろしいかと。実は、個人的にはMはわりと好きなので、けっこうな頻度で利用しているけれども、広く市場を見渡して、これは特寸でカバーしていいレベルかと思うので。黄金矩形だからって稼ぎの少ない人を住まわせおく余裕はないのよ、という意味ではなく、実際にMを使っていると、もっと長く伸ばしたいと思うこともけっこうあるので、このくらいの横長になったら、絵の構想に合わせて自由に寸法を決めるのが、良いのではないでしょうか。 そして次に、驚いたことに、規格からFもばっさり削除してはどうかと提案してみたりする。Fは肖像画サイズとも言われるが、現代のモードの肖像画ではPの方が収まりがよい可能性がある。 で、Fに替わって規格化するのは、Fよりもやや短い矩形である。 http://www.salvastyle.com/menu_baroque/vermeer.html ↑でフェルメールの作品群を参照すると、なんとなくF矩形より若干長辺が短いものが多いような気がする。Webページに記載の寸法が正確かどうかはひとまずおいて、「牛乳を注ぐ女」は比率、1:1.109、「ヴァージナルの前の二人」は1:1.148、「レースを編む女」1:1.166、風景画「デルフトの眺望」は1.192、という感じである。F(1:1.236)よりやや短い矩形は、既製キャンバス規格登場の前には、けっこう多い寸法であったかと思うので、それに立ち返ろうかと。。。巨匠の作品も既製キャンバスそのままで模写できる確率が(たぶん)上がります! 具体的な比率は何とも決定し難いが、「ヴァージナルの前の二人」に見られる1:1.148、または「レースを編む女」の1:1.166を候補して挙げてもよさそうである。惹かれるのは1:1.148のほうであるが、短すぎるとの反応もあるかもしれない。かなり語弊があるが、ひとまずこれを「フェルメール型」と呼んでおくことにする。 この型は、私の構想では現行のFに該当する主軸寸法であるが、現行主流のF規格と直接衝突しないので、一般ユーザーの混乱を招かないという、実行上の凄い利点が付随する。 そして、もうひとつ採用したい規格は√2矩形。P規格に相当するものであるが、現行のP規格は例によって不整合であるから、√2の正規版という感じでしょうか。√2矩形はコピー用紙などにも利用されており、2つに折ると半分の大きさの同じ比率ができるなど、なかなか合理的な値である。単に合理的というだけでなく、実際に使ってみると、静物画を描いても人物画を描いても、風景画を描いても何かと収まりがよかったりするとは思いませんか? また、下絵を描くときにコピー用紙が使えたりしてちょっと便利だったりも。ちなみに、P型に関しては元々の利用者が少ないので、新規格ができても、Fのような混乱はないでしょう。 というわけで、新規格は1:1.148のフェルメール型(仮称)、及び、√2矩形の正規P規格の2つに集約、あとは特寸を奨励。 もしうまく行ったとして、おそらく予測できる結果として、新規格と平行して、現行のF規格はたぶんずっと残って、広いユーザー層に使われるでしょう(現行Fは触らぬ神に祟り無しという感じで、そのままでいいでしょう)。現行P、Mは自然と消えてゆくという形になり、新しい規格を合わせて3種類の規格で落ち着くような感じになるかと。移行期の混乱を巧みに避けつつ、使用頻度の高そうな寸法を得られて、なかなかいいとは思いませんでしょうか。Mを排除した点は、(影響力は少ないかも知れないけれども)特寸の需要を多少なりとも拡大して、自由な比率への道を開くかもしれないとも。M、Fをスルーしたことは、黄金比から離れてしまうので、批判を受けるかも知れないけれども、その点に関しては丁寧に論破していく準備が着々と整いつつあります。 なお、国際サイズはあまりよくないと思うのだけど、その理由は、FPMと現在多量に流通している木枠や額縁を衝突して混乱を招きやすいということと、黄金比に傾倒しすぎており、マリオ・リヴィオ(著)『黄金比はすべてを美しくするか?』のような本が今後続けて出版されたりすると、間の抜けた選択をしたと後生の人に思われる可能性があるということで。 ※この記事は、冗談なので、あまり本気にしないでください。 |
2010,05,15, Saturday
シャルル・ブーロー(著)『構図法 名画に秘められた幾何学』の日本語版序文には「・・・ところが、わが国では、伝統的に、構図を数理的に考えることがほとんどなかった。すべては直感というか、勘の世界なのだ。どちらが優れているかの論はべつにして、ここに日本人の油絵の、構造的な弱さの一因があるのは、たしかだろう・・・」というくだりがあるが、全く同感である。しかしながら、構図法を数理的にキチンと考えるというような話をすると、直感派の人が現われてびっくりするほど怒りまくったりすることがあり、注意が必要である。逆に構図法の本を読んだが為に、絵画のほとんど全ての意味を構図に求めてしまうような場合もあって、それもどうかと思うわけである。構図法も直感も両方大切であって、どちらか一方に限ってしまうのが、そもそもバランス感覚を失調しているのではない。そのバランス配分は、各人が扱う題材や作風によっても異なるから、最終的には個人の判断となるのが筋であろう。
というわけで、構図を数理的に考えるという点はもっと美術教育に取り入れられていいかと思うのだけど、そうなると決まって登場するのが「黄金比」なんですな。エジプトのピラミッドや、アテネのパルテノン神殿、その他の様々な地域、時代の建築物やら、名画の数々に見出すことができるということになっている。それどころか、巻き貝とか、人体の比率など、森羅万象なんでもかんでもという感じで、いろいろ尾ひれがついて回るのだが、本当なんだろうか? と思わず疑ってしまいそうになるのだけれど、でも、ネット上のコメントなどを読むと、スゲー!って感じで、みんなそのまま受け入れてしまっているようである。解説書によっては、神秘の数字とか、古代から使われてきた絶対の美の基準であるとか、そのような文句が散りばめられているが、事の真偽はともかく、そのような話を聞いた際に少しも疑わないとしたら、ちょっと警戒心が無さ過ぎて危機管理上よろしくないと思わないでもない。正直のところ、黄金比を語れるほどの知識はないのだけど、いろいろもやもやした気持ちがあったので、手元にあった黄金比関連の本を軽く読み返した他、新たに注文したり、図書館から借りるなどして、読み漁っていたりしたのである。今は目の前にどっさりと黄金比の本が積まれており、はたから見たらどんだけ黄金比が好きなんだよと思われそうである。 実は黄金比はちょっとしたピンチかもしれない。もちろん、数学上の黄金比に格別の価値があることには変わりはないだろうが、美の基準みたいな、いろいろくっついていた付加価値みたいなものが再考されつつあるような気配がしないでもない。マリオ・リヴィオ(著)『黄金比はすべてを美しくするか?』は原題がThe Golden Ratio: The Story of Phi, the World's Most Astonishing Numberというらしいので、邦題はちょっと煽り気味な感じがするけれでも、数学としての黄金比の歴史を分かりやすく真面目に解説していて、その上で建築や美術で使われたとされている事例について検証しており、ピラミッドやパルテノン神殿に関しても黄金比を利用して築かれたという点が否定的に捉えられている。 自然や人工物に限らず、黄金比と言われているものは、実測してみると、黄金比というには誤差がありすぎる、あるいはそもそも黄金比と全く関係ない数値だったりすることが少なくない。wikipediaの「黄金比」の項は(他言語の同項目と比べて大した記事ではないのだけれど)、オウムガイが黄金比なのかどうかということで、ちょっとした編集合戦があったことが伺える。オウムガイの殻の構造は黄金比の例として頻繁に言及される。しかし、実際のオウムガイの測定値は「対数螺旋ではあるが、黄金螺旋ではない」というような記載が英語版Wikipediaになされ、それをもとにかどうか、日本語版に加筆されてネット上で広まり、各所でちょっとした衝撃を与えたようである。現在は、はっきりと否定した文献がないということで「・・・植物の葉の並び方や巻き貝の中にも見つけることができるといった主張がある」という感じに落ち着いている。 実は日本語版も出ているアルプレヒト・ボイテルスパッヒャー,ベルンハルト・ペトリ(著)『黄金分割 自然と数理と芸術と』に「・・・しかし、このようなみごとな性質は、対数螺旋ならどれにでも見られることを述べておかなければならない。黄金螺旋や妙法螺旋だけが、このような際立った役割を果たすわけではない。たとえば、オウム貝の螺旋は、黄金螺旋でも妙法螺旋でもないのである。黄金分割との関係は、本章で記述した初等幾何学的構造にとどまる・・・」と述べられいる。しかも同章は「…本章で述べる螺旋は、黄金分割とかかわりをもってはいるが、そのかかわり方は、著者等の考えではそれほど深いものではない。それでも、螺旋は、黄金分割との関連で言及されることが多いので、省いてしまうわけにはいかない・・・」という嫌そうな感じで螺旋の章を始めている。自分にとっても巻き貝はどうでもいい。 次に人体に黄金比見付かる、あるいは人体は黄金比で構成されているという話であるが、例えばヘソの位置が黄金比とされているが、スコット・オルセン『黄金比』では、長年の測定によると、「とくに多かったのは5/3(=1.67)だが、なかには8/5(=1.60)>もあった」とされており、しかし、それで充分黄金比の近似値と結論されている。まぁ、5/3もフィボナッチ数列であるから、黄金比に含めてもいいのかもしれないけれども、1.67は微妙なラインのような。。。ちなみに、平均的日本人が自分を計測すると、もっとすごいことになってて衝撃を受けるであろう。これは、美的に理想的な人体の比率が黄金比であって、べつに人体に黄金比が内包されているという意味ではないのかもしれない。いずれにしても、へその位置がそんなに重要だろうかと思わないでもないのだが。。。 やはり最大の関心事は、美術関連で古くからある作品に関して、制作者が黄金比を知っていて利用したのか、それとも美的に安定した形にしたら偶然に黄金比に近い値になったのか、あるいはそもそも黄金比の近似値は多少複雑な形を持ったものなら探せばいろいろ見付かるというだけで、取り立てて大げさに美の基準とまでいうほどのものではないのか、等々のような点である。で、手元に集めた各書の主張をいろいろ読んでみたのだが、気が向いたら感想など書いてみようかなと。 |
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